2021年6月

院長のつぶやき(36):61

 

<映画「いのちの停車場」をみて>

 

おはようございます。

新型コロナウィルスの北海道での新規感染者の数がなかなか減りません。今までの新規感染者は札幌が突出していた印象でしたが、それが全道に広がりそれこそ「いつでも、どこでも、だれにでも」という状態でしょうか。

 

一刻も早いワクチン接種が急がれるところですが、例えば私の場合、接種予約できるのは61日以降で、2回目はその3週間後です。予防接種が終わるのは7月以降だと思っています。

 

それまでは、「ステイホーム」、「三密(一密も)回避」、「手洗い、うがい、マスクの励行」を心がけます。

 

さて今月のつぶやきは、先日みた映画「いのちの停車場」についてつぶやいてみたいと思います。

 

ご承知のように主人公は、医師・白石咲和子さん、主役は吉永小百合さんです。吉永さんは、70歳を過ぎているのによく主役がとれるものだと感心しながらみていました。

 

映画の表題は「いのち」となっていますが、主題はその対極にある「死」についてです。大変に重い主題です。

 

映画で死を迎える人は、介護を受けながらもついに死亡していく人、末期がんを患いながら終末医療を拒否して死んでいく人、またある人は、抗がん剤治療を受けながらも若くして亡くなっていく人など様々な「死」が描かれています。

 

こうしたいろいろな「死」をとらえながらも最も訴えたかったのが、「安楽死」の問題ではなかったでしょうか?

 

苦しみながら死を迎えなければならない医師・咲和子の父は、「楽にしてくれ」と訴えます。医者である咲和子は、痛みに苦しみ、しかし自ら死ぬこともできない父について、どうするか悩み苦しみながら、「父の命は誰のものでしょうか?」と言わしめています。

 

日本の法律では「安楽死」は違法行為です。しかし苦痛にもがく父の姿に接し、医師・咲和子は父を「安楽死」させる事を決意します。

 

父の苦しむ姿を目の当たりにして、楽にさせてあげたいと思うのは、子供であればしかも医者であれば当然の心情でしょう。

 

私は、この時森鴎外の「高瀬舟」を思い出していました。「安楽死」を取り扱った有名な小説です。この中で鴎外は、「安楽死」は許されないが、心情は理解できるようなニュアンスで書かれているように思います。

 

一度は父を「安楽死」させることを決心した咲和子ですが、結末は・・・

 

「父の命は誰のもの?」と重い課題を突き付け、自ら命を絶つこともできない、もがき苦しんでいる人の「死」に対して、どうすればいいのかを問いかけています。

 

この「安楽死」の問題は、我々に、未来永劫にわたり解決すべき課題として突き付けているのかもしれません。